これを純朴に「作品」として受け取られるのは間違っている。
この古びた看板を間に置いて見せたいのは、「時間の経過そのもの」だ。
打ち捨てられていたこの看板に手を入れたのは紛れもなく自分ではあるが、実のところ、それは誰がやったって構わないのだ。
35年、或いはそれ以上の時間がこの看板に流れて、何百何千の人間がこの前を歩いた。――例えばその時間の中で、その辺の小学生がいつの頃だか悪戯に落書きしたものとして、それが雨風にかすれ消えかかってはまた誰かが落書きをしたとして、そうやって時間が過ぎて行った――自分が提示して見せたいのは、物事の始まりでも終わりでもない。時間の経過そのものだ。
だからこの看板は菅和彦の作品ではなく、随分な時間にそこを通り過ぎた見当もつかない数の人間達、或いは、時間そのものの作品なのかもしれない。

What I’m always fascinated by is, time itself.
Time which passes by with no mercy makes me paint.
Thousands of people had walked in front of this old sign board for the past over 35years.
I added something to it just like scribblings which kids always do to that kind of sign boards.
This is the passing time itself.

The orijinal form